道の端にいつものように、山アジサイが咲いた。そういえば、ほぼ昨年と同じ場所に、同じように露草も咲き始めて、また同じように季節が巡っていくのかしらん。
と思ったけれども、今年は、ヤマガラの声を聞き分けられるのが去年と違うところで、そうすると季節の巡りに概ね変化はなくとも、受け手の方では違ってくることもあったりする。いつもピーマン・きゅうり・トマトから始まって大根に至るまで、たくさんの野菜を届けてくださるご近所さんの畑にも、支柱が立って、苗が植って、今年の菜園の準備が着々と進んでいる。こちらからは例年通りの畑の様子に眺められても、きっと主のみなさんからすればいつもとは違うところもあるだろうと思う。
さて、そうしていつもと違うことを感ずることができるのは、その場に「いつも」いるからに違いなく、初めての土地に「いつも」などがあるわけもなく、「いつも」を感ぜられるだけその土地に馴染んだということに違いない。軽井沢には、生まれてからこの方、ずっと同じ土地に住んでいるという方々も少なくない。そこまで限定しなくとも、佐久や小諸から結婚や仕事の都合で移ってきた方も加えれば、相当の方が近隣の生まれ育ちだったりする。その土地の「いつも」はこの数年の話では足りないのであって、生まれてこの方、数十年という話になる。その数十年の土地や風景の移り変わりを意識せずとも肌身に感じ、知っている。そして、この世を去るまで、その地の「いつも」のなかに暮らすものとほとんど決まっている。
それがどんなであろうかと思うことがある。
今までは庭の木が育つ様子を何年か、せいぜい10年ばかり眺めることはあっても、やがてその地を離れるのだから、その先のその木の行く末を知ることはない。時を経て様子を見に戻ってくることはあっても、一時のものであって、結局は死ぬまでそばにある木ではない。
けれども、ある土地に定住するということは、そこにある木の行く末を命ある限りは眺め、あるいは木の方が先に枯れるのであればそれを見送ることになる。そうすると、どちらかの命尽きるとも、その先に何やら続くものがあるような気がしてくる。
根を張る、ということなのかもしれないなどと、改めてその言葉の意味が腑に落ちるようで、張った根が大地にしっかと繋がり、そこに得た滋養は容易くは絶えずにどこぞへと繋がっていく。それが幾数十代、数百代にもわたって続いてきたのが、ある種の頑固な落ち着きある信州の地の人々なのであろうと思うと、どこか羨ましいような気もしないではない。