今週、軽井沢にカッコウの初鳴きを耳にして、そういえば春にはカッコウの声は聞こえなかったと11年目にして初めて気づいてみたり。そこに春蝉の声も聴こえてきて、軽井沢の「初夏」というパズルのピースが一つ一つはめられて、また新しい季節の姿がいつのまにか形づくられている。
そういえば、人の一生もそんな風にピースが一つ一つ集まって形づくられていくものだったっけと、これまた今頃になって気づいてみたり。
年齢とともに人の感じる時間の流れは次第に早くなる。昔、父がそんな話をしていたことを思い出す。
意識した一定の「時間」というものは、その人の生きてきた時間の長さに比して感じられる。父が静かに語るそんな話に、まだ子どもだった私はとても興味深く耳を傾けたものだった。
あの頃の1年は、多分、私にとっては人生の10分の1くらいだったかもしれない。父にとっては、きっと30いくつか分の1。その時の父の歳をとうに超え、年々、月日の流れが速くなるように感じられるのは、そのせいと思うほかはない。
10年あまりを軽井沢に過ごしているうちに、幼稚園に通っていた子は中学生になっている。自分をかえりみるに、幼稚園から小学校を経て中学校に至るまでの時間はとても長かったのが、今やあっというまに流れ、10年という歳月にひとり驚愕する。
今、軽井沢は春の花の跡形もなく、初夏の花の代表格たるつつじもそろそろ終わろうかという季節。どの花々も、前の年と同じように咲くわけではない。同じ株でも花の色も違えば数も異なり、となれば花の散り具合も違ってくる。
人はというと、日々、時は着実に足を早めながら過ぎ去って、年々の変化の色も薄らいでいく。けれども、花の色や数が毎年違うように、どことなく年に応じて変わることもあって、時には大きな変わり目だってあるかもしれない。それとも変化ですらも相対的となって、あるいは大した変化と思わなくなっていくものか。
そんなことにはお構いなしに花々は咲き、散っていくその先に、はて何があるのだろうかと考えるのは人ばかり。