東京や横浜といった都市で最も好きな時間帯は夜、なかでも特にその明ける頃だった。
多くの人が家路につく日の入りの頃、昼の間とは違った活気が街角からじわりと滲み出す。飲食店からの美味しそうな匂いと、居酒屋の客引きの声に、街の灯りが次第に色を濃くする。
バブル期に学生時代を過ごし、その後も比較的恵まれた環境にあったせいもあり、家路につく以外の楽しみ、つまりは友人や同僚らと食事をしたり呑みにいくといった機会は少なくなかった。終電を逃し、タクシー帰りということも度々で、時には東の空が白む頃までなどということもないではなかった。
そんな時には、街の夜の始まりと終わりを存分に体験した。
そればかりでなく、高校・大学の試験勉強や社会人になってからの仕事での徹夜の時にも、都市の夜の風景をなんとなく横目で眺めていたものだった。
その時間帯の都市は、えも言われぬ魅力に満ちていた。
夜と昼とが交錯し、みるみるうちに風景が転換していく。眩しいほどの電灯と色鮮やかで、ややもすると猥雑なネオンが色褪せ、やがては白々とした朝の光に生命力を失うかのように消えていく。かわって、生き生きとした光が街中を照らし出し、それをエネルギーとするかのように人々も街も動き出す。
夜の街のどこか隠微な気配とは対照的な、真っ直ぐで明るい活気に満ちた音や気配が街に散発的にぽつりぽつりと感じられ、やがてその数を増してあれよあれよというまに街全体を包み込む。
ああ、そういえばこんな世界に暮らしていたんだと、その時、我に返る。
日暮れの頃を逢魔時(おうまがとき)という。
魔物に逢いやすい、災厄の起こりやすい時間帯として、ふるくから人々はなんとはなしに恐れを抱いていたという。
夜は異界である。
その異界は、夜明けの朝の光に露が消えるように跡形もなく姿を失う。そこに、よく知った日常が輪郭を現す。
異界であるからこそ夜は非日常であり、そうであるならば「祭り」といった非日常を表す「ハレ」という言葉をもって語ることもできる。
ハレに人々は酔いしれ、日常を忘れ、都市の夜という異界に身を没する。異界という非日常に身を委ねた人々に訪れる夜明けは、いわゆるハレとケの強制的な転換ともいえる。
今、東京はコロナ禍によってハレとしての夜をほとんど失っているのではなかろうか。
遠くにあってもそれがどことなく寂しく感じられ、また、その様子を軽井沢にあって想像するしかないのもまたなんとなく寂しい。
それでもなお、東京は江戸の頃から続く都市である。その大都市の夜のハレの空気感は、そう簡単には消し去られることはないはずである。東京の夜明けのあのたまらない魅力は今なお健在であろうし、そうであって欲しい。
そう思わせるほど、都市の夜明けの魅力は忘れがたい。
あるいは、あの頃の逢魔時の魔物に今もって取り憑つかれたままなのかもしれない。