こんにちは、あんじゅです。
先日、久しぶりに村上春樹氏の小説を読みました。今回は『騎士団長殺し 顕れるイデア編/還ろうメタファー編』(新潮文庫)です。
村上春樹氏の小説といえば、少し前なら『ノルウェイの森』、最近であれば『1Q84』などを思い起こす方も多いかもしれませんが、私はどちらかといえばファンタジー的な作品群の方が好みで、『羊をめぐる冒険』とその続編『ダンス・ダンス・ダンス』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、通学・通勤の電車内や、途中立ち寄るカフェで読んだものです。
その後、『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』を最後に、氏の作品ばかりでなく小説を読むことそのものから遠ざかっていました。電車内で小説を読むことが長い間の習慣になっていたのですが、軽井沢に転居して以来、電車に乗る機会がなくなり、本を読むまとまった時間がなくなったということもありました。でも、それよりも、人様の書いた小説を楽しむ余裕がなかったのかもしれません。
それでも、氏の長編小説『海辺のカフカ』は読ませていただきました。2002年に発表された作品ですが、読了はそれから随分と時を経た数年前のこと。そして、今回の『騎士団長殺し』が発表されたのは2017年ですから、2020年も終わろうとしている今、発表からはやはり随分と時間が経っています。
あんじゅは、発売された小説をすぐに読むことはあまりありません。
主義というわけではないのですが、小説は可能な限り文庫で読むのがあんじゅ流。勝手ながら時代小説の師の一人と仰ぐ池波正太郎氏や、今回ご登場いただいた村上春樹氏の作品は特に文庫で読みたいのです。
片道2時間半の通学のために常に鞄の中に本を持ち運んでいたせいで、軽い文庫本を好むようになったのかとも思いましたが、さほど通学時間の長くなかった大学受験時代も文庫を手に取ることが多かったことを思い出し、結局は、生来、文庫本が好きなのだろうと思う次第。
小説は単行本より文庫本で読む方が落ち着くのです。そして、その文庫本には必ずカバーをかけるのですが、この話はちょっと長くなりそうなのでまたの機会に。
ともかくも、最初に単行本で発売された作品が文庫本になるまでに数ヶ月から1、2年はかかるので、結果、あんじゅが読むのは発売からある程度の時を経た頃となるわけです。
そうして、ようやくに到達した『騎士団長殺し』で、久しぶりに村上春樹氏の小説世界に触れました。
壁や床の向こうの世界、得体の知れない登場人物たち。男と女、そして一貫した一人称。パスタを茹でている途中で電話がかかってきて、アルデンテが台無しになったりはしませんでしたが、やはりパスタを茹でるシーンが登場し、バドワイザーの銘柄指定はありませんでしたが、ビールを買い込むといったところまで、年齢を重ねられたせいか、その小説世界はかつてよりはやや丸みを帯びたようではありましたが、それでもなお健在でした。
今回登場した謎のキャラクター「騎士団長」や「顔なが」は、『海辺のカフカ』の「カーネル・サンダース」や「ジョニー・ウォーカー」を彷彿とさせ、氏の小説世界の面白みを確かに思い出させてくれました。
その「騎士団長」なのですが、何とも絶妙なしゃべり口で、
騎士団長以外の何ものでもあらない
といった調子です。
「顔なが」もまた、
彼はあたかも、通勤の人混みの中でオレンジ色のとんがり帽をかぶるように生きた
とくるわけで、なかなかに印象に残る登場人物たちです。
さて、小説を読むのは夜、寝る前のわずかな時間のみで、昼間はというと、最近は某出版社様からご依頼いただいた実用書のリライトに取り組んでいます。この元原稿がなかなかに惨憺たるありさまで、担当の編集者さんも頭を抱えてしまっていたところ、ご縁あってあんじゅの表稼業?!の事務所にリライトをご依頼いただくという運びとなった仕事です。
ご依頼の内容に「主述のねじれを排除する」という項目があるのですが、まさに「ねじれ」がほぼ全文、本一冊にわたって続きます。
たとえば、こんな感じです。
「担当業務に関する報告を行うときには、部下は納期の遅れという問題が顧客に言及を行うことを報告しなければなりません。」
テーマや個別の単語は改変しましたが、このような調子の文章が随所に登場し、担当の編集者さんが頭を抱えるのも無理はないわけです。著者様は一生懸命に書いていらっしゃるのが伝わってくる文章なのですが、何せ日本語として成り立っていないのが残念なところ。ご経歴を拝見すると、海外の学校を卒業されていて英語にはある程度堪能なのかもしれませんが、日本語は苦手なご様子です。もっとも、英語に置き換えれば問題なく通じる文章というわけでもなく、論旨、ひいては思考が論理的に形成されていないことが明らかで、少々気の毒な感すら覚えてしまいます。
特に抽象的な内容を説明しようとすると、途端に文章が崩壊する原稿。それを眺めながら、改めて思うのは「人は基本的には言語を基礎にして思考する」ということです。
つまり、モノを考える際には頭の中に言語が走り、それによって人は思考を構築するわけです。頭の中に走らせる言語を正確に操ることができて初めて、正確な思考が可能となるということになるわけですが、その言語は日本語でも英語でもなんでもよくて、ただ、少なくとも一つの言語をある程度は正確に操ることができなければ、思考は困難になるであろうことが想像されます。
かつて、ほとんど生来と言ってもよいバイリンガルの方たちとお仕事をさせていただく機会があり、そのうちの一人に尋ねたことがありました。
日本語と英語をどうやって使い分けているの?
彼らは、日本語も英語も相当程度に使いこなしていました。バイリンガルに憧れながら、英語は読めるけれどもほとんど話せないという、日本のかつての英語教育の申し子そのまんまのあんじゅですから、海外との交渉を必要とする案件では彼らに大層お世話になりました。
彼らは、日本語を話していたかと思えば次の瞬間には英語で話し、続いて日本語でメールを書いていたかと思えば、英語でジョークを飛ばすといった次第で、英語と日本語の間を自由に行き来していました。どうしたらそうなれるのかと思っての質問さ先ほどのそれで、返ってきた答えはこうでした。
頭の中に、英語と日本語のそれぞれのトンネルがある。英語を使う時は英語のトンネルを使うし、日本語の時は日本語のトンネルを使うんだ
つまり、言語という一つのトンネルに日本語も英語も通すのではなく、2つのトンネルがあってそれぞれに別の言語が通るというのです。だから、それぞれのトンネルを適切に構築していれば、どちらの言語も適切に操れるというわけでした。
子どもの頃にせめて2か国語だけでも堪能になっておけば、今頃、苦労しなくても済んだのにと当時は思っていましたが、2本のトンネルを頭の中に適切に構築するというのもなかなかに苦労なことかもしれません。そして、もしそれに失敗し、2本ともが中途半端なトンネルになってしまえば、中途半端な言語によって思考もまた中途半端に形成されていくという、極めて危険な事態を招くことになりそうです。
この点、あんじゅは1つのトンネルをひたすら掘り進め、もう1本のトンネルを構築する器用さを持ち合わせないままここまできてしまいました。
村上春樹氏はアメリカ文学の翻訳も手がけているだけに、頭の中にどんなトンネルが走っているのだろうかと想像してみますが、『騎士団長殺し』に登場した「騎士団長」や「顔なが」の奇妙な台詞は、日本語感覚に優れているからこそ編み出しえたことは確かであるように思います。春樹氏が子どもの頃、食卓でのご両親の会話のお題が『万葉集』だったというのも、その言語感覚に寄与しているのではないかと勝手ながら想像しています。
その絶妙な語り口の登場人物たちの台詞と、編集者さんも頭を抱えるほとんど崩壊寸前のリライト原稿の間を行き来しながら、さて、バイリンガルには一生なれそうもないあんじゅは、いかにして日本語を書くこと・読むことを仕事にしくのだろうかと考える今日この頃です。